【コラム】なぜラテンの先生は、言葉に詰まっても笑顔で待ってくれるのか?

タイトル通り、Mundo Contigoの先生と話したり、レッスンの様子を見ていると、ふと感じることがあります。

「どうしてあんなにおおらかなのだろう?」と。

もちろん、面接時に先生の人となりを見ているのもありますが、それ以上に現地に渡航して先生以外の人とも触れると、共通したおっとりさというか温かみのようなものを感じます。

レッスンにおいては、発音が少し違っても、文法が崩れても、空気が重くならない、こちらが考えてしゃべりだすのを辛抱強く待ってくれる。笑いながら、次の一言を待っている。そうした様子を見たり生徒様から聞いたりしていて、ものの捉え方が、私たちとは少し違うのではないかと思えてきます。3連休空港への移動中、なぜだろう?と考えてみました。

中南米の多くの地域は、日本と比べると年間を通して温暖です。安定した気温のもとで、とうもろこしやじゃがいもなどの主食が育つ土地も多いです。そうした自然環境の安定が、人々の心持ちにもどこか影響しているのではないか、と感じることがあります。

もちろん気候だけで説明できるものではありませんが、温かい気候のもとで、人と人との距離が近い暮らしが営まれているのは確かです。市場や広場、公園、あるいはなバルなんかでの会話は日常の一部で、「話す」という行為そのものが生活の中心にあるように見えます。

そこで重視されるのは、正確さよりもつながりです。間違いは、会話を止める理由にはならない。その延長線上に、レッスンの伸びやかな雰囲気があるのかもしれません。

センシティブな事柄ですが、もう一つ背景として無視できないのが宗教文化かなと考えています。

先生のいるグアテマラを含む多くの国では、カトリック文化が社会の基盤にあります。昔大学で履修した宗教学の歴史を振り返ると、罪や過ちを告白し、赦され、再び前に進むという思想は、長い時間をかけて人々の価値観の一部になっていると思います。

もちろん、宗教だけで国民性を説明することはできませんし、「人は間違える存在である」という前提の上に成り立つ世界観は、言い過ぎかもしれませんがどこか日常のコミュニケーションにも通じているように感じます。

完璧であることよりも、誠実さ。正しさよりも、関係性といった価値観が、語学の教え方や学び方にも、静かに影響しているのかもしれません (個人の考えです)。

一方で、日本人は本当に真面目です。準備をする、確認をする、できるようになってから発言する、この真面目さと慎重さこれは間違いなく強みです。

ただ、その真面目さが時に、「間違えてはいけない」という無言のプレッシャーになることもあります。文法を完璧にしてから話そうとするあまり、言葉が出てこなくなる。準備に時間をかけるうちに、実践の機会を逃してしまいます。

ラテンの先生たちの考えを目の当たりにしていると、順番が逆というか、まず話して、 「通じた?じゃあ大丈夫。細かいところは後で一緒に直しますか。」といった調子です。その安心感が、学ぶ側の緊張をほどいていくんではないかなと思います。

書いていて、語学は単語や文法を覚える作業であると同時に、こうした価値観の違いに触れる体験でもあると思いました。自分の当たり前が、少しずつ揺らぐ。その揺らぎが面白いです。

ラテンの先生たちが楽しそうなのは、語学を「できるか、できないか」で見ていないからなのかもしれません。話すことそのものに価値がある。

私が初心者の時を振り返ると、慣れないスペイン語で言葉に詰まったとき、スペイン語の先生はよくこう言ってくれました。

“No te preocupes.”(心配しないで、大丈夫)
“Poco a poco.”(一歩ずつ)
“¡No hay problema!”(何の問題もなし!=間違えてもOK!)

そういう言葉が向けられると、私たちももう少し肩の力を抜いていいのではないか、と感じます。以上、お読みいただきありがとうございました。

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